二代目淀長(襲名予定)、2007年初仕事で御座います。
本日公開の映画『マリー・アントワネット』 早速観てまいりました☆
昨年カンヌでも上映され、賛否両論あって話題になっていた作品がいよいよ日本上陸!!
いや?、長かったよ!! オイラ、半年以上も待っていたんだからね。この作品がやってくるのを
内容は…まぁ説明するまでもないのですが、フランスの王妃 マリー・アントワネットの映画なのですが…
本作のポイントは、これは決してただの
伝記映画ではない
というところだ。
監督 ソフィア・コッポラの処女作『ヴァージン・スーサイズ』でのダンス・パーティーの後、キルスティン・ダンストが彼と抜け出して芝生の上で朝を迎えるシーンは、マリー・アントワネットの誕生日パーティーで皆と朝日を見に行くくだりに似ているし(色調も)、『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソンとカメラマンの旦那とのクールな夫婦関係は、ルイ16世とマリー・アントワネットのそれによく似ている。
それは同じ監督が作ったのだから(脚本も)、当たり前といえば当たり前なのだが、私が言いたいのは
これはマリー・アントワネットの話を借りた
ソフィア・コッポラの私的映画
なのである。
まずソフィアは言わずと知れたセレブリティーである(コッポラ一族)。
そして、ルイ16世の子供っぽいところはソフィアの前夫 スパイク・ジョーンズ(これまた映画監督)に似てなくもない(前作『ロスト・イン?』のカメラマンの夫は、スパイク・ジョーンズがモデル!?/苦笑)。
設定やコスチューム・プレイは確かに18世紀フランス王朝時代のまさしくそれなのだが、可愛い靴やお菓子を見てキャピキャピとはしゃぐマリー・アントワネット(キルスティン・ダンスト)の姿は まさに現代の女性と重なるところがある。
それとお世継ぎがなかなか出来ず、周りから冷遇され、ひとり悩み苦しむマリー・アントワネットの姿を見ていると
みのさんに電話で相談してもらった方がいいのでは!?
と、思わせるものがある(笑)。
これは他人事でも、絵空事でも、歴史上の昔の話でもなく
今 我々現代人(ソフィア自身)が抱えている諸問題となんら変わりはない
という事をソフィア・コッポラは伝えたかったのかもしれない。
特筆すべきは、ソフィアの監督作として『マリー・アントワネット』は初のビッグ・バジェットの作品になったわけだが、大メジャーであり、史実の作品とはいえ、自身の「ガーリッシュなスタイル(作風)」を貫き通したという点だ。
大物になり、メジャーな作品を手掛けるようになると
「いやー、あの人は(悪い意味で)変わったね」
とか
「昔の作品の方が良かったなぁ…」
などと言われがちですが(いや、誰とは言わないが…/苦笑)、ソフィアはこの『マリー・アントワネット』を単なる大作に終わらすことなく「自分のもの」にすることができた。
これは本作のプロデューサーでもあり、パパでもあるフランシス・フォード・コッポラが娘のために自由にやらせてあげたからこそ成し得たのであろう。
そしてソフィア作品の持つガーリッシュでイノセントな作風は本作でも遺憾なく発揮され、こうして保たれているのだ。
私たちが持っていた マリー・アントワネットのイメージは、パンもロクに食べることができないような貧困に喘ぐ民衆に向かって
「じゃあ パンが食べられないのなら、ケーキを食べればいいのに」
と、飄々と言い放った(と言われている)冷たい浪費家のイメージだったのだが、子供たちと戯れ、ひっそりとオーガニックな田舎生活に勤しむマリー・アントワネットの姿には ちょっとホッとさせられた。
これは
どこにでもいる少女・マリーの数奇な運命の物語
だったのだ。
ちょっとネタバレになってしまうのだが(ゴメン)、ラストはヴェルサイル宮殿を後にし、逃亡するところでブチッと終わってしまう。
それがたぶん賛否両論を巻き起こした部分だったのだと思うのだが、別にソフィア・コッポラはマリー・アントワネットがギロチンに掛けられるところまでを描く必要はないと判断したのであろう。
ソフィア・コッポラが描きたかったのは
マリー・アントワネットが 誕生日パーティーの日に皆で見たヴェルサイルから見た朝日を
もう一度逃亡の日に見つめながら、ヴェルサイル宮殿を去っていくという
まるで「少女でいられる短い時間」を惜しむような あのラストシーンだったのではなかろうか。
本日公開の映画『マリー・アントワネット』 早速観てまいりました☆
昨年カンヌでも上映され、賛否両論あって話題になっていた作品がいよいよ日本上陸!!
いや?、長かったよ!! オイラ、半年以上も待っていたんだからね。この作品がやってくるのを
内容は…まぁ説明するまでもないのですが、フランスの王妃 マリー・アントワネットの映画なのですが…
本作のポイントは、これは決してただの
伝記映画ではない
というところだ。
監督 ソフィア・コッポラの処女作『ヴァージン・スーサイズ』でのダンス・パーティーの後、キルスティン・ダンストが彼と抜け出して芝生の上で朝を迎えるシーンは、マリー・アントワネットの誕生日パーティーで皆と朝日を見に行くくだりに似ているし(色調も)、『ロスト・イン・トランスレーション』のスカーレット・ヨハンソンとカメラマンの旦那とのクールな夫婦関係は、ルイ16世とマリー・アントワネットのそれによく似ている。
それは同じ監督が作ったのだから(脚本も)、当たり前といえば当たり前なのだが、私が言いたいのは
これはマリー・アントワネットの話を借りた
ソフィア・コッポラの私的映画
なのである。
まずソフィアは言わずと知れたセレブリティーである(コッポラ一族)。
そして、ルイ16世の子供っぽいところはソフィアの前夫 スパイク・ジョーンズ(これまた映画監督)に似てなくもない(前作『ロスト・イン?』のカメラマンの夫は、スパイク・ジョーンズがモデル!?/苦笑)。
設定やコスチューム・プレイは確かに18世紀フランス王朝時代のまさしくそれなのだが、可愛い靴やお菓子を見てキャピキャピとはしゃぐマリー・アントワネット(キルスティン・ダンスト)の姿は まさに現代の女性と重なるところがある。
それとお世継ぎがなかなか出来ず、周りから冷遇され、ひとり悩み苦しむマリー・アントワネットの姿を見ていると
みのさんに電話で相談してもらった方がいいのでは!?
と、思わせるものがある(笑)。
これは他人事でも、絵空事でも、歴史上の昔の話でもなく
今 我々現代人(ソフィア自身)が抱えている諸問題となんら変わりはない
という事をソフィア・コッポラは伝えたかったのかもしれない。
特筆すべきは、ソフィアの監督作として『マリー・アントワネット』は初のビッグ・バジェットの作品になったわけだが、大メジャーであり、史実の作品とはいえ、自身の「ガーリッシュなスタイル(作風)」を貫き通したという点だ。
大物になり、メジャーな作品を手掛けるようになると
「いやー、あの人は(悪い意味で)変わったね」
とか
「昔の作品の方が良かったなぁ…」
などと言われがちですが(いや、誰とは言わないが…/苦笑)、ソフィアはこの『マリー・アントワネット』を単なる大作に終わらすことなく「自分のもの」にすることができた。
これは本作のプロデューサーでもあり、パパでもあるフランシス・フォード・コッポラが娘のために自由にやらせてあげたからこそ成し得たのであろう。
そしてソフィア作品の持つガーリッシュでイノセントな作風は本作でも遺憾なく発揮され、こうして保たれているのだ。
私たちが持っていた マリー・アントワネットのイメージは、パンもロクに食べることができないような貧困に喘ぐ民衆に向かって
「じゃあ パンが食べられないのなら、ケーキを食べればいいのに」
と、飄々と言い放った(と言われている)冷たい浪費家のイメージだったのだが、子供たちと戯れ、ひっそりとオーガニックな田舎生活に勤しむマリー・アントワネットの姿には ちょっとホッとさせられた。
これは
どこにでもいる少女・マリーの数奇な運命の物語
だったのだ。
ちょっとネタバレになってしまうのだが(ゴメン)、ラストはヴェルサイル宮殿を後にし、逃亡するところでブチッと終わってしまう。
それがたぶん賛否両論を巻き起こした部分だったのだと思うのだが、別にソフィア・コッポラはマリー・アントワネットがギロチンに掛けられるところまでを描く必要はないと判断したのであろう。
ソフィア・コッポラが描きたかったのは
マリー・アントワネットが 誕生日パーティーの日に皆で見たヴェルサイルから見た朝日を
もう一度逃亡の日に見つめながら、ヴェルサイル宮殿を去っていくという
まるで「少女でいられる短い時間」を惜しむような あのラストシーンだったのではなかろうか。