今テレビで『紅の豚』を観ています(笑)。
ジブリ作品では『となりのトトロ』と並んで、オイラの中でベストの作品ですね、これは。
何がいいって
「押しつけがましいメッセージが無い」
というところが この作品の価値を上げているのではないかと。
そして
「明瞭完結なプロット」
賞金稼ぎの豚とアメリカ野郎が、ふたりの女性(ジーナ&フィオ)を巡って闘う…という、3秒で内容を説明できてしまう この単純さ!!(笑)
それと
「1本の映画が 丸々名ゼリフ集」
という点もこの作品の特色だろう。
宮崎駿流のダンディズムに満ちた本作のテーマは
「男どもは皆カッコつけ。だけど女性の強さには かなわない」
という…あの白髪髭のおじさんは『ルパン三世 カリオストロの城』の頃から ずーっと同じことを繰り返し描いているのだ!!(笑)
それとオイラは 宮崎アニメのヒロインの中では、フィオが一番好きなんだよね?☆
宮崎アニメのヒロインは お姫様(クラリス、シータ)か、不思議ちゃん系(ナウシカ、サン)の2種に分類できる(笑)。
フィオは強いて言えば『機動警察パトレイバー』の泉野明のような「メカヲタちゃん」なのかもしれないが、囚われの身のお姫様や 蟲とお話しする不思議ちゃん(苦笑)みたいな「非現実的な存在」と比べたら、身近に感じられる 非常に「正常な女の子」である(笑)。
こんな娘がホントにいたら 彼女にしたいなぁ?☆(笑)
最後に、以前このログにも書きました『紅の豚』のレビューを再録致します。
見終わった後にでも読んで頂ければ是幸いです☆
____________________
好きな映画は何度も見直すことが多い。
そしてそれが良質な作品であればあるほど新たなる発見は多い。
「何故にマルコ・パゴットは“紅の豚”(ポルコ・ロッソ)になったのか?」
…そんな些細な疑問から 新たな発見は見い出された。
彼が「ファシストになるより豚の方がマシさ」と言っていたのは、あれは建前にしか過ぎない。
確かにポルコは戦後 賞金稼ぎに身をやつし、飛行艇乗りというプライドだけで生きてきたアウトローではあるのだが、ただ世捨て人になったということだけが 彼を豚にさせた理由だとは到底思えない。
ポルコが何故自分自身に魔法をかける必要があったのか…
それは幼なじみジーナへの禁欲だ。
豚は人を愛してはいけない…かくしてポルコは自ら豚と成り下がり、人妻(未亡人)ジーナへの愛を抑制する…というわけなのである。
同時に人は豚を愛さない…ポルコは豚になることで他者(ジーナ以外の女性)を寄せつけず、ジーナへの愛を貫いたという風にはとれないだろうか。
ジーナは作中 3人目の夫が戦地で亡くなったことを正式に通達され ひとつの愛を終わらせる。その時点でポルコは愛の勝者になれるのか?
答えはノーである。
「死人に口なし」とはいえ、闘うべき相手を無くした(亡くした)ことで その愛は永遠のものとなる。
そしてポルコ・ロッソ(マルコ・パゴット)には 戦友であったジーナの元夫・ベルリーニを救えなかったという負い目もある。
もしかするとポルコの中では、どちらにせよ勝ち目のない勝負だったのかもしれない。
しかし“不実の愛”と勝手に決めつけていたのは ジーナへの愛を永遠に封印するため 豚に身を落とし続けているポルコだけであった。
そう、ジーナは何時如何なる時もそばにいて励ましてくれるポルコ(マルコ)に想いを寄せていたのだ。
そしてジーナはホテル・アドリアーノの庭園でポルコが降りてくるのを待ち続けるという 途方もない「賭け」に出ている。
「ここではあなたのお国より人生がもうちょっと複雑なの」
とジーナは言っていたが、彼女の言う通り 大人の恋愛とはそう一筋縄ではいかないものなのである。
童話『眠れぬ森の美女』や『カエルになった王子』のようにキスをすれば簡単に魔法が解けるというわけではない。
問題は
キスに至るまでの過程
なのだ。
しかし その役目を買って出る人物が登場する。
それが飛行艇職人・ピッコロの孫娘・フィオである。
ポルコとジーナの“大人たちの事情”とは関係ないところで突如現れた第三者・フィオの接吻により ポルコの魔法はあっさりと解けてしまうのであった。
そしてポルコとジーナ そしてフィオの間にしゃしゃり出て話を展開させる人物がアメリカ野郎・カーチスである。
カーチスの出現によってポルコは「愛の勝負の決戦場」へと出ざるを得なくなる。
ポルコはここでようやく“失われた好敵手(というか仮想敵)”と出会うことができたのだ。
そこで私は『紅の豚』の基本構造は『ルパン三世 カリオストロの城』と ほとんど同じであるということに気がついた。
つまり『カリ城』でいうところのカーチスの役回りはカリオストロ伯爵である。
そうなるとフィオはクラリスになるというわけで…フィオ(クラリス)をアメリカ野郎(ロリコン伯爵)から引き離すためにポルコ(ルパン)はカーチス(カリオストロ伯爵)とお宝(賞金・フィオ・ジーナ)をかけて一騎打ち(『カリ城』でいうところの時計塔内部での肉弾戦)をするわけである。
しかし愛の勝負の勝者・ポルコ(ルパン)はフィオ(クラリス)と結局結ばれることはないのである。
結局ポルコ(ルパン)は本妻(!?)・ジーナ(不二子)の元へと戻っていくのだ(となると、最後「豚は嫌えだが あんたは好きだ」という名ゼリフを残したマンマユート団・団長の役割は銭形か!?/笑)。
ただ『カリ城』と『紅の豚』が異なる点はラストである。
『紅の豚』では最後にちょこっとだけ“後日談”が描かれている。
その中でフィオが最後にモノローグで語った
「ジーナさんの賭けがどうなったかは私達だけの秘密…」
という余韻を残した台詞がなんとも興味深い。
そこで私が言いたいのは
フィオがジーナとのポルコ争奪戦からその後そう簡単に身を引いたとは思えない
ということである。
あれからきっと10年近く時が流れているのであろうか…作中では結局黙して語られなかった「私達だけの秘密」とはきっと
女同士のポルコをめぐる闘い
だったのではなかろうか(と、いってもそれは決してドロドロとしたものではなかったと思われるが/笑)。
仮に『カリ城』に後日談があったとして クラリスが不二子との激しいルパン争奪戦に参戦していたかどうかは計り知れないが(笑)、クラリスにアクティブな雰囲気を加味したフィオのようなキャラクターであったら、真っ向からフェアな闘いを 自分よりも遙かに大人の女性・ジーナに申しつけていてもおかしくはないはずである。
しかし フィオはこの闘いに勝つことはなかったと私は推測する。
その答えは既に作中にある。
ジーナが待つホテル・アドリアーノに降りることなく真紅の飛行艇で現れたポルコ・ロッソことマルコ・パゴットは彼女の前で華麗なアクロバット飛行を披露する。
その時大空に描いた軌跡は
大きな 大きなハートマーク
だったではないか
ジブリ作品では『となりのトトロ』と並んで、オイラの中でベストの作品ですね、これは。
何がいいって
「押しつけがましいメッセージが無い」
というところが この作品の価値を上げているのではないかと。
そして
「明瞭完結なプロット」
賞金稼ぎの豚とアメリカ野郎が、ふたりの女性(ジーナ&フィオ)を巡って闘う…という、3秒で内容を説明できてしまう この単純さ!!(笑)
それと
「1本の映画が 丸々名ゼリフ集」
という点もこの作品の特色だろう。
宮崎駿流のダンディズムに満ちた本作のテーマは
「男どもは皆カッコつけ。だけど女性の強さには かなわない」
という…あの白髪髭のおじさんは『ルパン三世 カリオストロの城』の頃から ずーっと同じことを繰り返し描いているのだ!!(笑)
それとオイラは 宮崎アニメのヒロインの中では、フィオが一番好きなんだよね?☆
宮崎アニメのヒロインは お姫様(クラリス、シータ)か、不思議ちゃん系(ナウシカ、サン)の2種に分類できる(笑)。
フィオは強いて言えば『機動警察パトレイバー』の泉野明のような「メカヲタちゃん」なのかもしれないが、囚われの身のお姫様や 蟲とお話しする不思議ちゃん(苦笑)みたいな「非現実的な存在」と比べたら、身近に感じられる 非常に「正常な女の子」である(笑)。
こんな娘がホントにいたら 彼女にしたいなぁ?☆(笑)
最後に、以前このログにも書きました『紅の豚』のレビューを再録致します。
見終わった後にでも読んで頂ければ是幸いです☆
____________________
好きな映画は何度も見直すことが多い。
そしてそれが良質な作品であればあるほど新たなる発見は多い。
「何故にマルコ・パゴットは“紅の豚”(ポルコ・ロッソ)になったのか?」
…そんな些細な疑問から 新たな発見は見い出された。
彼が「ファシストになるより豚の方がマシさ」と言っていたのは、あれは建前にしか過ぎない。
確かにポルコは戦後 賞金稼ぎに身をやつし、飛行艇乗りというプライドだけで生きてきたアウトローではあるのだが、ただ世捨て人になったということだけが 彼を豚にさせた理由だとは到底思えない。
ポルコが何故自分自身に魔法をかける必要があったのか…
それは幼なじみジーナへの禁欲だ。
豚は人を愛してはいけない…かくしてポルコは自ら豚と成り下がり、人妻(未亡人)ジーナへの愛を抑制する…というわけなのである。
同時に人は豚を愛さない…ポルコは豚になることで他者(ジーナ以外の女性)を寄せつけず、ジーナへの愛を貫いたという風にはとれないだろうか。
ジーナは作中 3人目の夫が戦地で亡くなったことを正式に通達され ひとつの愛を終わらせる。その時点でポルコは愛の勝者になれるのか?
答えはノーである。
「死人に口なし」とはいえ、闘うべき相手を無くした(亡くした)ことで その愛は永遠のものとなる。
そしてポルコ・ロッソ(マルコ・パゴット)には 戦友であったジーナの元夫・ベルリーニを救えなかったという負い目もある。
もしかするとポルコの中では、どちらにせよ勝ち目のない勝負だったのかもしれない。
しかし“不実の愛”と勝手に決めつけていたのは ジーナへの愛を永遠に封印するため 豚に身を落とし続けているポルコだけであった。
そう、ジーナは何時如何なる時もそばにいて励ましてくれるポルコ(マルコ)に想いを寄せていたのだ。
そしてジーナはホテル・アドリアーノの庭園でポルコが降りてくるのを待ち続けるという 途方もない「賭け」に出ている。
「ここではあなたのお国より人生がもうちょっと複雑なの」
とジーナは言っていたが、彼女の言う通り 大人の恋愛とはそう一筋縄ではいかないものなのである。
童話『眠れぬ森の美女』や『カエルになった王子』のようにキスをすれば簡単に魔法が解けるというわけではない。
問題は
キスに至るまでの過程
なのだ。
しかし その役目を買って出る人物が登場する。
それが飛行艇職人・ピッコロの孫娘・フィオである。
ポルコとジーナの“大人たちの事情”とは関係ないところで突如現れた第三者・フィオの接吻により ポルコの魔法はあっさりと解けてしまうのであった。
そしてポルコとジーナ そしてフィオの間にしゃしゃり出て話を展開させる人物がアメリカ野郎・カーチスである。
カーチスの出現によってポルコは「愛の勝負の決戦場」へと出ざるを得なくなる。
ポルコはここでようやく“失われた好敵手(というか仮想敵)”と出会うことができたのだ。
そこで私は『紅の豚』の基本構造は『ルパン三世 カリオストロの城』と ほとんど同じであるということに気がついた。
つまり『カリ城』でいうところのカーチスの役回りはカリオストロ伯爵である。
そうなるとフィオはクラリスになるというわけで…フィオ(クラリス)をアメリカ野郎(ロリコン伯爵)から引き離すためにポルコ(ルパン)はカーチス(カリオストロ伯爵)とお宝(賞金・フィオ・ジーナ)をかけて一騎打ち(『カリ城』でいうところの時計塔内部での肉弾戦)をするわけである。
しかし愛の勝負の勝者・ポルコ(ルパン)はフィオ(クラリス)と結局結ばれることはないのである。
結局ポルコ(ルパン)は本妻(!?)・ジーナ(不二子)の元へと戻っていくのだ(となると、最後「豚は嫌えだが あんたは好きだ」という名ゼリフを残したマンマユート団・団長の役割は銭形か!?/笑)。
ただ『カリ城』と『紅の豚』が異なる点はラストである。
『紅の豚』では最後にちょこっとだけ“後日談”が描かれている。
その中でフィオが最後にモノローグで語った
「ジーナさんの賭けがどうなったかは私達だけの秘密…」
という余韻を残した台詞がなんとも興味深い。
そこで私が言いたいのは
フィオがジーナとのポルコ争奪戦からその後そう簡単に身を引いたとは思えない
ということである。
あれからきっと10年近く時が流れているのであろうか…作中では結局黙して語られなかった「私達だけの秘密」とはきっと
女同士のポルコをめぐる闘い
だったのではなかろうか(と、いってもそれは決してドロドロとしたものではなかったと思われるが/笑)。
仮に『カリ城』に後日談があったとして クラリスが不二子との激しいルパン争奪戦に参戦していたかどうかは計り知れないが(笑)、クラリスにアクティブな雰囲気を加味したフィオのようなキャラクターであったら、真っ向からフェアな闘いを 自分よりも遙かに大人の女性・ジーナに申しつけていてもおかしくはないはずである。
しかし フィオはこの闘いに勝つことはなかったと私は推測する。
その答えは既に作中にある。
ジーナが待つホテル・アドリアーノに降りることなく真紅の飛行艇で現れたポルコ・ロッソことマルコ・パゴットは彼女の前で華麗なアクロバット飛行を披露する。
その時大空に描いた軌跡は
大きな 大きなハートマーク
だったではないか