NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』がいよいよ佳境である。

震災復興支援のために 鈴鹿ひろ美がチャリティーリサイタルを被災地・北三陸で開くと切り出す。もちろん自分が唄った歌ではないという事も知り、自分が「移ろいやすい音程」であるという事を自覚しての決断だw

そこで新たな展開が。春子は「影武者」であった事実を鈴鹿本人に明かし、過去が清算されスッキリしたかもしれないが、鈴鹿ひろ美だけは まだ過去を引きずり、コンプレックスを抱えていたという真実。

これは ちょっと意外な展開だった。彼女は「それでも唄いたい」と強く思い願っていたのだった。


で、このシーンを見ていて、ピンと閃いた!!

そうだ、『あまちゃん』というドラマは、(震災の)復興も含めた

「再生の物語」

だったのだ。

そういえば よくよく考えてみたら 鈴鹿ひろ美だけではなく、この「再生」が主人公の天野アキ以外のほとんどの主要人物にとってキーワードになっているではないか。

アイドルの表舞台には立てず、のちに別の形で芸能界に再起を掛けた春子、春子との再婚をずっと願っていた正宗、幾度となく挫折をし、震災によって東京への進路も絶たれたが「潮騒のメモリーズ」で地元アイドルとして再び復活を遂げるユイ、大病から生還した夏ばっぱと足立パパ、家族を捨てて失踪したが、ふたたび地元に帰ってきた足立ママ、一度は夢やぶれたが、またアイドルを育てるという夢を北三陸の地で成し遂げる決心を固めたミズタク…と、ここでちょっと挙げただけでも、ほとんどの登場人物が「再生」という言葉と絡んでいる。

先程「天野アキ以外の~」と前置きしたが、つまりアキは周囲のその「再生」を促す存在なのである。


作中、震災による被害や復興に対して気遣っていたアキに対して夏ばっぱが放った

「お構いねぐ」

という名言があった。被災した人たちは確かに大変だ。だけど何も大変なのは被災者である自分たちだけではない。だからこそ出てきた「お構いねぐ」という言葉だったのではなかろうか。

3.11以前と以降で人々の心の在り方も変わったかもしれない。だけど、大変だったのは震災以前も同じだという事。みんな生きている限りは 何かしら問題や悩みを抱えて日々を送っているのだ。

震災という事実を通して、クドカンが描きたかったのは そういう事だったのではないだろうか。

「あまちゃん」であるアキを通じて、その周辺の人たちが「再生」され、その過去が浄化(成仏)されていく。

前作の朝の連ドラ『純と愛』も同じく「再生の物語」だったが、『あまちゃん』との大きな違いは 登場人物が驚くほど不幸の連続で ちっとも救われていないし、主人公が前向きであっても浄化されていないのだ(なので、もちろん見ている側のカタルシスも薄い)。

別にそれでドラマとして悪いとは言わないが、やはりここは朝一番で見てから職場や学校に向かう人たちが多く見ている朝の連ドラでは 明るい話の方が望ましいとクドカンが描いた世界観は まさに『純と愛』へのアンサードラマだったとは言えないだろうか。


しかも話が2011年に向かって進めば進むほど物語の緊張は高まる。そう、見てる側(視聴者)は この後起こる東日本大震災の事実を知っているから…。

一説によると脚本の宮藤官九郎は『あまちゃん』を書くにあたって、どうやって震災を描くか(もしくは描かないか)ギリギリまで悩み抜いたと言われている。

事実としての震災を「描く」という選択肢、そして そもそもフィクションなのだから 仮に無かった事かのように「描かない」という選択肢もあったはずだ。だけどクドカンは苦悩の末に描く方を取った。

そして それと同時に「震災で(登場人物が)誰も死ななかった」という選択肢も選んだ。

自分も学生の頃、脚本家を目指して書いていた時期があったので 書き手の気持ちがよくわかるのだが、話(脚本)の中で「安易に人を殺す」というのは一番やってはいけない事だった。人が死んで悲しいというのは当たり前だし、それは「逃げ」であると信じていた。

もちろんあれだけの大きな東北での震災で 北三陸の登場人物全員が何事もなく無事に生きていたという事に対しての「ご都合主義」とか「甘い」とか「リアリティに欠ける」いうような批判は避けられないという事もわかっていながらも、クドカンはそれを選択したのである(まぁどちらを取っても結局 非難を避ける事はできないのだが/苦笑)。厳しい現実とフィクションとのせめぎ合い…しかし これはドラマであり、報道やドキュメンタリーではない、ある種のファンタジーなのである。そしてもちろん被災者への配慮もあった(津波のシーンを破壊された模型で表現したり、テレビ中継を見ている人たちのリアクションで見せたりと)。


それでは最後に、ラストに向かってのキーワードをひとつ。

劇中 海女たちによって唄われ、よく流れていたキーソング・橋幸夫と吉永小百合による『いつでも夢を』の一節

あの娘は いつも 歌ってる

そう、潮騒のメモリーズとして復活を遂げたアキもユイも、喪失した歌手としてのアイデンティティを取り戻そうとしている鈴鹿ひろ美も、北三陸のみんなも、きっと最後は笑顔で「歌ってる」のではなかろうか(『あまちゃん』と音楽との関係性については 以前このブログで書いたので、こちらを参照して頂きたい)。

ラストは北三陸鉄道、潮騒のメモリーズ、そして鈴鹿ひろ美の3つの「再生」が成されて、それが3倍以上の物語のカタルシスを生むのではないかと 推測している。 

最後には どんな大団円が待っているのであろうか。最終回はハンカチ必須で臨みたいw