『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』とは厳密にいうと夢の話ではなく「映画について言及した映画」だ。そこが当時のアニメとは一線を画する点だった。


劇場版1作目である『うる星やつら オンリー・ユー』が公開された当時、伊丹十三はこの作品を「甘い甘いお菓子のような映画」と評した。その事が押井守の中でずっと引っ掛かっていた。本人にその自覚があったのだ。「併映の『ションベン・ライダー』(相米慎二監督作品)の方が映画として ずっと魅力的だし面白い」と。

そしてリベンジを賭けたビューティフル・ドリーマーで彼は うる星やつらの世界観だけを借りて、自分の作家性を強く前面に打ち出した作品を作り上げる(これは宮崎駿における『ルパン三世 カリオストロの城』にも共通する)。それがアニメ史どころか映画史に残る傑作となった(が、原作者の高橋留美子とは遺恨を残す事となる/苦笑)。


繰り返される文化祭前日、折れても元に戻る面堂の刀、3階建だったのに4階建になっていた校舎、人がいないのに絶える事のないインフラとコンビニの食料実はこれらの事はテレビシリーズにおける うる星やつらの登場人物にとっては普通の日常風景に過ぎない。なんといってもギャグアニメであり、創作物なのであるから。

で、押井守はそのご都合主義を逆手に取って「映画と同じ作り物の世界」を我々の日常に置き換え 特殊なものとして描いたのだ。夢邪鬼がテンに渡した仔豚のお尻に©︎マークがあるのは そういう事だ。

後に押井守は『トーキング・ヘッド』のような直接映画を題材とした映画も作っているが、その作風は他の作品にも脈々と流れている。現実(日常)というソフトウェア(人間)と映画(アニメ)というハードウェア(器)というテーマは そのまま草薙素子とも重なるし、アニメだけでなく実写作品も多く手掛けている事からもそれが読み取れる。

押井守はアニメにCGを導入をし始めた頃に「(当時は)CGではCG(のシーン)しか表現できない」と言っていたが「映画は映画でしか表現できない」という事を今に至るまで体現し続けているのではなかろうか。

だから彼はいつも同じようなテーマ・モチーフを繰り返す。まるで友引高校における文化祭前日のように。