本日昭島のMOVIXで映画『ジョーカー』を再鑑賞(2度目)。


で、今回は「どこからどこまでがアーサー(ジョーカー)の夢想なのか」というテーマに絞って集中して観てみたのですがそれですごい事がわかった!!(これ以降はネタバレとなりますので、ご容赦の程を)

 

 

2度目を見始めた当初は


・精神病棟を出てピエロとして生計を立てながら母親と二人暮らしをしているっていうところ以外は全部アーサーの夢想と予想

・地下鉄で3人のエリートサラリーマンを殺したのはアーサーではなく、マスクをした別のジョーカーの可能性(アーサーは自分が殺ったと思い込んでいる)。

・アーサーが病室にいる母親を殺めたのも妄想。おそらくただの自然死を自分が殺したものと思い込んでいるだけ。

・同僚のクラウン仲間を殺したシーンは事実なのか妄想なのかはちょっと微妙。ただ妄想の可能性高し。

・そもそもアーサーはスタンドアップコメディアンではない。ネタ帳を持ったまま舞台に上がる芸人なんているものかなのでステージに上がっているのも、テレビに取り上げられ出演したのも全て夢想(あの舞台をビデオで録っていたっていうのもありえないかと)


と思っていた。


しかしラストシーンを見てその今まであれこれ考えていた自分(観客)の夢想は無駄なものだったとはっきりとわかった。


もしかすると、アーサーが精神病棟にいた(もしくは現在進行形)という事実以外は全て彼の夢想(夢オチ)なのではないかと思えてきたのだ。


そうすると捕らえられパトカーで護送される際に救出されたにも関わらず、オープニングにチラリと出てきた精神病棟にまたいるという件も納得がいくし、うまく円環している事になる。

ラストでは血の足跡を残しながらステップを踏んでいるが、あの思わせぶりなシーン(カウンセラーを殺したのではないかと思わせるような)も実はアーサーの夢想なのではと思えてきた。


その他にも「全てが夢想論」を決定づける事項はいくつかある。例えば


・一番わかりやすい夢想の例として、同じアパートメントに住むシングルマザーの黒人女性とのロマンスは実はアーサーの妄想でしたというネタばらしが挙げられるが、ひょっとするとアレは「この黒人女性とのロマンス以外は全て真実です」と観客をミスリードさせるためにわざと入れたシーンだったのではなかろうかと深読み。

・アーサーがトーマス・ウェインがいる『モダン・タイムス』のフルオケ付き上映会に容易に忍べ込めたというのも不自然(つまりこれも夢想)。それとゴッサムシティという架空の世界に、実在するチャップリンの映画が上映されているというのにも何か違和感を感じる(つまりこの上映会そのものがアーサーの夢想でもある)。
・最後ブルース・ウェインの両親を殺害したのは「別のジョーカー」だった。つまりこれは何を意味するのかというと「別にジョーカーはアーサーでなくてもいい」そして「これを観ているあなたもジョーカーになる可能性を含んでいるのだ」という事だ。

・それとメディアでは地下鉄殺害事件の犯人はピエロの「マスク」をした人物だと報道している。アーサーはマスクではなくメイクだ。つまりこれは前述と同じように


マスクさえ被れば(アーサーでなくても)誰でもジョーカーになれる

アーサーはジョーカーではない(自分こそがジョーカーであると夢想するただの「気狂いピエロ」)

ジョーカーはジャック・ニコルソンでもあり、ヒース・レジャーでもあり、ジャレッド・レトでもある(そしてホアキン・フェニックスでもある)

要は誰でもいい

という事は誰にでもジョーカーになり得るし、それはあなたなのかもしれないよ

つまり『ジョーカー』は「(アーサーによる)ジョーカー・ビギニング」の話ではない(ホアキン・フェニックス=ヒース・レジャーではない)


という事を示唆しているのではないのかというのが、二代目淀長(襲名予定)の見解だ。
 
 

そして以上が『ジョーカー』は傑作ではあるけれど、世紀の大傑作ではない理由なのである。


もしかするとこれだけ掘り甲斐があるだけでも充分に大傑作なのかもしれないが(笑)、夢オチなのだと思うと急に冷めてしまったいやー、奥深いよ『ジョーカー』は。
 
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